2013年5月28日火曜日

歴史散歩(37):伊勢殿屋敷跡


薩摩藩に仕えた千石取りの幹部役伊勢氏の居処跡地です。
付近の千石屋敷の名残を偲び、この地を千石町と名付けました。

明治維新後は洋服店を開業した大和屋新兵衛がこの地を買い取り大和屋の私有地となりました。その後、花柳界の人々に買われ、鹿児島の大歓楽街に代わりました。

2013年5月26日日曜日

神社仏閣(15):千石天神


鹿児島市の中心部天文館の天神馬場通りの名称の起源であり、島津藩政時代からこの通りにあって正徳3年の大火により焼失した萩原天神を昭和12年当時の東千石町町民の総意によって復興することが決議され、翌昭和13年現在地に完成しました。
神霊は京都北野天満宮より分霊をいただきお祀りしています。

歴史散歩(36):涙石


西本願寺鹿児島別院の境内にある「涙石」です。

旧薩摩藩時代、島津氏の領内では浄土真宗の教えは厳しく禁じられていて、信者の疑いがあるものは捕えられて自白を強制されました。この石はそのために用いられたもので、役人たちは信者にこの石を抱かせて自白を迫ったと伝えられています。それで、信者たちの苦しみの涙がそそがれた石という意味で涙石と呼ばれています。

なみだ石 涙にぬれて もだしけり まことの命 ためさるるとき  「梅原真隆」

2013年5月18日土曜日

歴史散歩(35):貴様と俺の碑

鴨池公民館脇にある貴様と俺の碑です。


昭和18年4月、鹿児島海軍航空隊がここに生まれ数多くの荒鷲がこの鴨池に巣立ち祖国防衛戦に散りました。戦後20年、隊友が我が国の危難に殉じた戦友の鎮魂を祈りこの碑を建立した。
(鹿児島海軍航空隊慰霊顕彰会)

1.正面上段のブロンズ像は若い搭乗員が昇天しているところを表しています。
2.2体の石柱は天に向かって永遠の平和を祈る合掌を表しています。
3.2体の石柱を結び合わせてあるのは貴様と俺を表しています。
4.右柱の七つの穴は予科練の七つ釦を表しています。



2013年5月17日金曜日

草花(7):バラ園(錦江湾公園)

錦江湾公園のバラ園に行ってきました。150種類のバラが咲きほこっていました。


「うらら」京成バラ園作です。


「ピエール・ドゥ・ロンサール」1989年フランスで作られました。


「スカーレット メディランド」フランス・メイアン作です。


珍しい紫のバラです。「カーディナル・ド・リシュリュー」です。1840年に作られました。


「プリンセス・ドゥ・モナコ」です。モナコ公国王妃となった、女優のグレースケリーに捧げられたバラです。1981年作。


「プリンセス・ミチコ」英国から皇后陛下に捧げられた名花です。
1966年イギリス作。

2013年5月11日土曜日

歴史散歩(34):県立博物館「考古資料館」


石造建築物は日本では数少なくなっていますが、鹿児島にはいくつか残されています。

県立考古資料館もその一つです。鹿児島県内では、磯の尚古集成館に次いで古く、壁や床には県内産の石が用いられています。

この建物は明治16年(1883)鹿児島市で開催された第24回九州沖縄連合共進会のパビリオンとして建てられ、当時はネオゴシック風のモダンなスタイルが話題になりました。その後、県立興業館となり国内外の物産を陳列。明治22年、鹿児島市制施行と同時に仮事務所、昭和7年には県商工奨励館として使用されました。

県立博物館となったのは昭和28年からで、博物館の本館が旧図書館に移ってからは、考古資料館として、県内で発掘された埋蔵文化財の展示に使われています。

平成10年登録有形文化財に登録されました。
また、平成14年には展示資料を埋蔵文化財センターと上野原縄文の森へ移設し、閉館しました。

2013年5月10日金曜日

歴史散歩(33):桜島爆発記念碑

桜島爆発記念碑です。県立博物館の前に建っています。


桜島は大正3年1月12日に大噴火を起こしています。大噴火とそれに伴う地震にて、死者・行方不明者58名、負傷者112名、家屋の焼失2148棟、家屋の全半壊315棟という甚大な被害が出ました。



この石碑はその大正大噴火を記念して建立されました。

来年の1月12日にて大正噴火100周年を迎えます。国際火山学地球内部化学協会 (IAVCEI)学術総会が30年ぶりに日本に誘致され、鹿児島市で開催されることになっています。
鹿児島市では多くのイベントを計画しているようです。

http://sakurajima100.org


2013年5月8日水曜日

歴史散歩(32):世界で初めて精子が発見されたソテツ


鹿児島県立博物館の庭にある、このソテツは明治29年(1896)、東京帝国大学の池野成一郎博士が世界で初めて精子を発見したときの材料に使われました。

ソテツの祖先は中生代に繁栄しており、ソテツは「生きた化石」とも呼ばれることもあります。


東京大学の小石川植物園にはこれを記念してこの株からとった株が「鹿児島県県立博物館のこういによって分譲された”精子発見のソテツ”」として植えられています。

小石川植物園を訪れた時、鹿児島に行ったらこの親株を見ようと思っていました。やっと出会えました。

2013年5月7日火曜日

歴史散歩(31):電信使用の地


島津第28代藩主斉彬は、安政4年(1857)本丸から探勝園までの間に日本で初めて電信通信を始めました。線の長さは、500~600mありました。

Japan's First Telegraph

Shimadzu Nariakira, the 28th lord of Satsuma, began telegraphic communications between Honmaru of Tsurumaru Castle and Tanshoen in 1857, for the first time in Japan. The cable connecting the two sites was about 600 meters long.

銅像(5):島津忠義


島津忠義公(1840~1897)です。

 島津忠義は島津久光の長男として生まれました。島津家第28代斉彬の遺言により、斉彬の娘と結婚、薩摩藩主となり、祖父の斉興、父の久光の補佐を受けながら、藩政改革と陸海軍の充実に努めました。
 文久2年(1862)の久光の率兵上京、藩政改革、生麦事件、薩英戦争には藩をあげて行動するとともに、薩英戦争後イギリスとの関係改善を図り、五代友厚などの使節団や留学生を派遣して人材育成を図るとともに、日本最初の紡績工場をつくるなど、集成館事業の充実に努めました。

 明治維新後は、進んで版籍奉還を行い、鹿児島藩の知事、後に貴族院議員となりました。

 忠義は律儀な性格で、父・久光の遺言で死ぬまでマゲを切らなかったといわれています。

 この像は久光と同じ探勝園にあり、斉彬・久光同様に朝倉文夫の作です。

銅像(4):島津久光


島津久光公(1817~1887)

 島津久光は島津家27代藩主島津斉興の第5子として生まれました。斉彬の異母弟にあたり、斉彬の遺言で久光の子忠義が藩主となると、その求めに応じて「国父」として藩政の実験を握り、忠義を後見しました。文久2年(1862)、斉彬の意志を継ぎ、朝廷を奉り、幕政改革を志して千人の兵を率いて上京。江戸から帰る際には薩英戦争へとつながる生麦事件が起こりました。その後、公武合体運動を進めますが思うようにいかず、ついに倒幕へと向かいます。

 明治以降になると、明治6年に内閣顧問、翌年には左大臣となりますが、政府首脳ととの対立もあり、明治8年には辞任して鹿児島に帰郷し鶴丸城に入りました。しかし、西南戦争が起こると、中立を守って桜島に移居。戦争後は玉里邸を再建して隠居。

この像も朝倉文夫氏の製作です。照国神社横の探勝園の中に建っています。

銅像(3):島津斉彬


島津斉彬公(1809~1858)

 島津斉彬公は薩摩藩主第27代島津斉興の嫡男として生まれました。母は鳥取藩主池田治道の娘賢章院です。
 海外の文化に強い関心を示された曽祖父島津重豪に可愛がられていたため、斉彬公も海外の情報・文化に精通されるようになりました。
 アヘン戦争で清国がイギリスに敗れたことから、西欧諸国の植民地化政策を恐れ、日本が一つにまとまり、強く豊かな国造りを目指すべきだと考えられました。そして、嘉永4年(1851)藩主になると、鹿児島の磯に「集成館」という工場群を築き、ここを中心に、造船・製鉄・紡績・電信・硝子など様々な事業に取り組みました。
 また、人材育成のため教育にも力を注がれ、西郷隆盛や大久保利通など有能な人材を育てました。斉彬公は安政5年、世を去られましたが、日本を強く豊かな国に生まれ変わらせるという夢は、弟の島津久光公やその長男忠義公、さらには西郷隆盛や大久保利通ら多くの家臣の手で実現されました。

照国神社の御祭神として神社境内に鎮座しています。

この銅像は朝倉文夫作です。

2013年5月6日月曜日

歴史散歩(30):僧俊寛の碑


平安時代の末期、京の僧俊寛は平家の横暴を憎み、これを倒すために京都の鹿ヶ谷で平康頼、丹波少将成経らと会合したところを平清盛に捕らわれました。治承元年(1177)、俊寛は平清盛によって鬼界島(現在の三島村硫黄島)に流されたとき、ここから船出しました。
明治31年ごろここが埋め立てられるまでは堀があって俊寛堀と呼ばれていました。

神社仏閣(14):照国神社



早くから開国論を唱え、西郷・大久保を指導して幕政改革をめざした島津家第28代藩主斉彬は1858年7月15日、炎天下での閲兵が災いしてその後にわかに発病、あっけなく49歳の生涯を閉じました。斉彬の開花事業は当時鹿児島を訪れたオランダ人技術将校が一目見て驚嘆するほどの水準にあったことが記録されています。死後朝廷は、その数々の功績を讃え、照国大明神の神号を贈りました。




そこで元治元年(1864)鶴丸城西側の南泉院跡に一社を造営、照国神社が創建されました。


 境内入り口にみごとなイヌマキがあります。「鶴斉」と呼ばれています。
昭和37年に中塚製菓から寄進されたもので、名前は公募で命名されています。

神社仏閣(13):猫神




名勝仙巌園の中にある猫神様です。

猫神は朝鮮出兵の際に従軍した猫七匹を祀る祠です。第17代藩主島津義弘は、陣中で猫の瞳孔の開き具合をもとに時刻を推測したと伝えられており、「時の神様」といわれています。また、百日咳に御利益があるともいわれています。


以前訪れた時は鳥居はなくこのような状態でした。しかし、パワースポットととして取り上げられていました。


2013年5月5日日曜日

神社仏閣(12):川上神社


川上神社です。

御祭神:彌都波能売神(ミヅハノメノカミ)

川上神社は、後三条天皇の延久4年(約900年前)に創建され、その後天和3年(約300年前)石祠に造り替された古社で古くより枚聞神社の摂社でした。


古来、本社枚聞神社の神前に、朝夕献供する御饌の水源地として特に清浄にかんりされてきたもので、絶えず湧き出る清泉は、下流域の地方民の飲料水として、また田畑の灌漑用水として利用される一方、水難、水害の防止の守護神として地方民に特に親しまれてきたお社です。

歴史散歩(29):造士館・演武館跡

造士館・演武館の碑と記


第25代藩主島津重豪は、安永2年(1773)有能な人材を育成するために、鶴丸城前の広い敷地に藩校・造士館と演武館を創設しました。

造士館では、8歳から21~22歳の城下士子弟数百名が朱子学を中心に多様な教科を学びましたが、庶民の聴講も許されていました。中国高官や琉球国王の扁額が掲げられているように国際色がゆたかであり、唐通事や朝鮮通事という通訳官も養成されました。


演武館は、剣術・槍術・弓術・馬術など、藩中武芸の中心道場でした。示現流剣術の東郷家。御家伝犬追物の川上家など師範22家が厳しく指導しました。

両施設の運営資金は藩から与えられ、生徒からは学費を徴収しませんでした。

歴史散歩(28):ガス燈



日本における最初のガス燈は、安政4年(1857)に、薩摩藩第28代藩主、島津斉彬公が磯庭園の石燈籠に点火したのが始まりです。

ガス燈はそれまでのローソクや石油ランプのあかりに代わり、昭和の初めに至るまで、「文明のあかり」として広く使用されました。その後、ガス燈は電気の普及により、次第に姿を消しました。

鹿児島市では鶴丸城址前の道を夢とロマンを偲ぶ歴史の道として整備し、ガス燈を設置しました。

歴史散歩(27):薩摩辞書之碑


薩摩辞書之碑です。県立図書館の正門に建っています。

薩摩辞書は、薩摩版英和辞書です。慶応元年(1865)薩摩藩士高橋新吉、前田献吉、前田正名の三人が藩庁から資金を借りて、中国の上海で開成所版の英和辞書を翻刻したものです。通称薩摩辞書として当時広く利用されました。明治2年、増補和訳英辞書として増刊されました。
高橋新吉(後勧業銀行総裁)等は出版の益金で米国遊学をしました。

草花(6):花菱草



池田湖畔で見つけた花菱草です。

原産地はアメリカ、カリフォルニアで、別名カリフォルニアポピーとも言われています。
花の形が紋所の花菱紋に似ているところから「花菱草」という名前がつけられました。

学名: Eschscholzia californica

花言葉:和解、希望

2013年5月4日土曜日

医学歴史散歩(3):医学院跡


薩摩藩主25代島津重豪は、開化的な政策を掲げて人材育成に力を注ぎ、藩校造士館・演武館に続いて、安永3年(1774)医学院を創設しました。

医学院は、江戸の医学館に準じた学規八略を定め、医書の講習・討論などにより医師の養成と薬草研究などによる医療の進歩を目指しました。希望する城下士・地方に住む郷士や足軽・町人も入学を許可され、七人前後の講師のもとで数十人から百人ほどの医生が学びました。

Site of Medical Institute

Shimadzu Shigehide, 25th lord of Satsuma, was a gret advocate for civilizing adn educating peaple. Following examples set by the clan schools of Zoshikan and Embukan, Shigehide established a Medical Institute to the southwest of these buildings in 1774.


古い石碑です。

川と橋(4):大乗院橋(稲荷川)


大乗院橋は天保13年に肥後の国の石工・岩永三五郎が作ったという屈指の石造りの名橋でしたが、平成5年(1993)の鹿児島大水害により流されてしまいました。

現在はその場所に新しい橋が架けられています。

歴史散歩(25):薩摩義士碑


薩摩義士碑です。

宝暦3年(1753)幕府は薩摩藩に木曽川治水工事を命じ、藩は家老の平田靭負を総奉行に任じ、約1000名を派遣しました。平田は大阪の商人から22万両を借り工事に取り掛かりましたが、梅雨の増水で折角築いた堤が切れ、工事は困難を極めました、さらに監督する幕府役人の横暴や疫病の発生により、自刃、病死するものが続出。完成までの1年3か月の間に犠牲者は84名を数え、工費も40万両に達しました。
平田は総奉行はその責めを一身に負い自刃。藩政時代は幕府への遠慮から、彼らの偉業は公表されず、大正9年(1920)ようやく慰霊碑が建ち、義士として称えられました。









碑の手前には東郷平八郎の書による常夜燈が建っています。
「義烈泣鬼神」と刻まれています

歴史散歩(26):西郷隆盛終焉の地


西郷隆盛終焉の地です。

明治10年(1877)9月24日、西郷隆盛は城山洞窟を出た後、2発の銃弾を大腿部に受けました。この地で東を向き、皇居を伏し拝む西郷に、別府晋介の介錯の太刀が振り下ろされました。

西郷を敬愛する私学校生とを中心に強大な反政府勢力となった薩軍が2月15日に50年ぶりの豪雪をついて熊本に軍を進めて以来、7か月も続いた西南の役がおわりました。

神社仏閣(11):高野山最大乗院

国道10号線から長田陸橋手前を左に折れると石塀に囲まれた寺院がみえます。


最大乗院です。大乗院は明治2年の廃仏毀釈によって取り壊しになりましたが、明治29年(1896)高野山の説教所として再興されました。


石塀の門には獅子が鎮座しています。吼える獅子の窟と刻まれています。


小さな本堂です。


境内には多くの石仏が安置されていました。その数100体以上です。まるで五百羅漢さんですね。


また境内には桂文楽の句碑がありました。
寄進者は喜劇役者のフランキー境氏です。鹿児島出身です。



2013年5月3日金曜日

医学歴史散歩(2):赤倉の跡碑


桜島桟橋電停の右側歩道に小さな赤倉の跡碑があります。

明治元年(1868)、薩摩藩では漢方医学に西洋医学を取り入れた医学校を浄光明寺跡(現在の南洲公園)につくり、翌年、西郷や大久保の推薦でイギリス公使館付医師として日本にやってきていた、英国人医師ウィリアム・ウィルスが招かれ、校長兼病院長となりました。
その後、医学校は小川町へ、病院は滑川沿いの赤レンガ造りの洋館にうつりましたが、この病院は窓が小さく、倉庫のように見えたので、赤倉病院と呼ばれました。


ウィルスは多くの医学生を育て、鹿児島の近代医学の先覚者となりました。