島津久光公(1817~1887)
島津久光は島津家27代藩主島津斉興の第5子として生まれました。斉彬の異母弟にあたり、斉彬の遺言で久光の子忠義が藩主となると、その求めに応じて「国父」として藩政の実験を握り、忠義を後見しました。文久2年(1862)、斉彬の意志を継ぎ、朝廷を奉り、幕政改革を志して千人の兵を率いて上京。江戸から帰る際には薩英戦争へとつながる生麦事件が起こりました。その後、公武合体運動を進めますが思うようにいかず、ついに倒幕へと向かいます。
明治以降になると、明治6年に内閣顧問、翌年には左大臣となりますが、政府首脳ととの対立もあり、明治8年には辞任して鹿児島に帰郷し鶴丸城に入りました。しかし、西南戦争が起こると、中立を守って桜島に移居。戦争後は玉里邸を再建して隠居。
この像も朝倉文夫氏の製作です。照国神社横の探勝園の中に建っています。
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