薩摩義士碑です。
宝暦3年(1753)幕府は薩摩藩に木曽川治水工事を命じ、藩は家老の平田靭負を総奉行に任じ、約1000名を派遣しました。平田は大阪の商人から22万両を借り工事に取り掛かりましたが、梅雨の増水で折角築いた堤が切れ、工事は困難を極めました、さらに監督する幕府役人の横暴や疫病の発生により、自刃、病死するものが続出。完成までの1年3か月の間に犠牲者は84名を数え、工費も40万両に達しました。
平田は総奉行はその責めを一身に負い自刃。藩政時代は幕府への遠慮から、彼らの偉業は公表されず、大正9年(1920)ようやく慰霊碑が建ち、義士として称えられました。
碑の手前には東郷平八郎の書による常夜燈が建っています。
「義烈泣鬼神」と刻まれています
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