2013年4月30日火曜日

歴史散歩(23):森有礼誕生地


春日神社の前に大きな石碑が建っています。日本で最初の文部大臣となり、日本の教育の基礎を築いた森有礼の生まれたところです。

森有礼(1848~1889)は17歳の時薩摩藩から選ばれて19名の留学生の一人としてイギリスに渡りました。この時、ヨーロッパの進んだ学問や文明に接し、今後の日本はこれらの文化を積極的に取り入れていかなければならにと強く考えました。帰国後、外交官となりアメリカに行くなど活躍しています。

1806(明治6年)、福沢諭吉などと「明六社」を作り雑誌を発行しました。古い考え方や習慣を批判し、新しい文化を広めていきました。男女同権、信仰の自由、一夫一婦制など現在では当たり前のことを主張していました。また「廃刀論」を発表し、職をやめさせられました。

明治18年(1885)、日本で最初の内閣の文部大臣となりました。ドイツの教育制度を取り入れ、小学校から大学までの学校制度を整えました。この教育方針はその後の日本の教育に大きな影響を与えました。

明治22年(1889)2月11日、大日本帝国憲法発布の日、自宅で暴漢に襲われ、翌日亡くなりました。

所在:鹿児島市池之上町

歴史散歩(22):薩藩水軍軍港跡


関ヶ原の戦いに敗れ、北進の望みを絶たれた島津氏は、対明貿易経営に意欲をみせ、樺山久高を総大将、平田増宗を副将として、慶長14年(1609)100隻、兵3000人の大部隊で琉球を攻め、琉球国の持つ対明貿易の権益を奪いました。

その時薩摩水軍の軍港であったのが春日神社あたりです。遠征軍は現在の稲荷川河口付近の戸柱橋付近から乗船したと思われます。当時このあたりは海で、戦国時代に稲荷川河口に港が築かれたことから、相当大きな港町があったようです。しかし、洪水によって川底に大量の土砂が堆積し、大型の船の出入りが不自由になったため、港は甲突川河口に移されました。


現在の戸柱橋です。稲荷川に架かり、国道10号線が走っています。

神社仏閣(10):上町五社 若宮神社


島津氏の家祖忠久が鎌倉の鶴岡八幡宮を勧請したというが、暦応年間(14世紀初め)の創祀とも、延文元年(1356)に第5代藩主島津貞久公が内城の鎮護神として大隅正八幡宮を勧請したのに創まるともいいます。



明治初年まで若宮八幡宮といわれていました。

神社仏閣(9):上町五社 春日神社


春日神社は約千年前(島津氏が薩摩の国を治める300年前)に長谷場氏により建立されました。御祭神は、経津主神、武甕槌神、天児屋根神、姫大神です。上町五社の中で一番古い神社として有名です。


神社仏閣(8):上町五社 稲荷神社


稲荷神社は鹿児島市稲荷町にある鹿児島五社第三位の神社です。薩摩藩藩主島津氏に尊崇されたために島津稲荷とも称されています。


島津氏の家祖である忠久は嵐の夜に摂津の住吉大社で稲荷神の神験により狐火に護られながら生まれたとされ、生涯住吉大社と稲荷神を崇敬したことから、薩摩に下った承元3年(1209)に湯田村(現日置市)に稲荷神社を勧請したのが創祀です。代々島津家によって崇敬され、後に島津忠国によって現在社に遷座したといいます。


福笑龍神です。

滝の神のこの地は、古くより龍神信仰の厚き地とされています。稲荷神社に文化10年(1813)に創られた龍神像をいつしか御神体とする信仰が生まれ、2012年辰年を機に新たに社を創り奉賽しました。

2013年4月29日月曜日

神社仏閣(7):上町五社 八坂神社

八坂神社は上町五社の第二社です。



永暦元年(1160)以前に京都の八坂神社を勧請したというが不詳です。
もともとは稲荷川の上流部に位置していましたが、享保9年に市街地から磯地区へ至る経路として鳥越の山越え道を主街道としていたのを海岸を北上する磯街道に切り替え、八坂神社も移転されました。


おぎおんさぁーとして親しまれている鹿児島の最大の夏祭り祇園祭りはこの八坂神社から出発します。町るに使われる神輿が展示してありました。規模は違いますが、東京深川の富岡八幡宮を思い出します。


神社仏閣(6):上町五社 南方神社

島津氏が本拠を鹿児島に移したのは南北朝時代の事です。島津家第5代貞久は、東福寺城を攻め、鹿児島郡司矢上一族を追い、鹿児島に入りました。島津氏の城下町はこの城を中心に南へ南へと広がっていきました。


このとき、出水山門院から移され、この地に建立されたのが南方神社です。南方神社は諏訪神社ともいい、建御名方命(たてみなかたのみこと)と事代主命(ことしろぬしのみこと)を祀り、上町五社の第一社として歴代藩主の信仰が厚く崇敬されてきました。


諏訪市(8月28日)と呼ばれた市は、西田市と並んで最近まで盛んでした。
正月、5月、9月は五社詣と称して多くの人々がお参りしてにぎわいました。

歴史散歩(21):徳の交わり


西郷隆盛(南洲)と菅実秀(臥牛)が対話しているこの坐像は、西郷屋敷において両翁が親睦を深め「徳の交わり」を誓い合ったことを記念して制作したものです。
臥牛翁は庄内藩の有力な家老でした。庄内藩は戊辰戦争で官軍に激しく抵抗したため厳しい処分を覚悟していましたが、南洲翁の暖かい取り計らいにより処分は極めて寛大なものとなりました。この南洲おきなの人徳に感服した臥牛翁は明治8年自ら7名の旧庄内藩士とともに来鹿し南洲翁の教えを受けました。
後に臥牛翁はこれらの人々の手記を集め「南洲翁遺訓」を発刊し全国に頒布しました。


山形県鶴岡市とは昭和44年(1969)に姉妹都市の締結を行っています。


また、南洲墓地前には姉妹都市締結時に鶴岡市から送られた庄内柿が植えられています。


歴史散歩(20):西郷屋敷跡


武屋敷は、西郷隆盛が朝鮮への使節派遣の考えに反対されて明治6年(1873)鹿児島に帰ってから、明治10年(1877)西南戦争が起こる前までの4年間を暮したところです。屋敷は約3600平方メートルで、建物は縁の高い御殿造りで部屋数も多く、庭にあった大きな松が訪れる人の目標となっていました。




屋敷は西南戦争で焼け、明治13年(1880)、弟の従道が再建しましたが、現在は西郷公園となっています。場所は鹿児島中央駅より徒歩5分のところです。


当時を偲ばせる井戸です。
ここでの西郷の暮らしは、まさに晴耕雨読の生活で、吉野や西別府で農耕に励む一方、県内各地で狩猟や湯治を楽しむなど、”武村の吉”として悠々自適の生活を送っていました。



歴史散歩(19):薩英戦争本陣跡


文久2年(1862)8月におこった生麦事件は、その犯人の処分や賠償金の処理問題で交渉が難航し、とうとう翌年7月イギリス艦隊が来襲して戦争になってしまいました。当時はここは万福山千眼寺であったが、鶴丸城が海岸に近く敵弾の飛来するおそれがあったので、久光、忠義(29代藩主)父子はこの寺に本陣をおいて総指揮をとりました。その後千眼寺は廃仏毀釈によって壊されてしまいました。

The Remains of the Anglo-Satsuma War Headquarters

  The Anglo-Satsuma war began in july of 1863 as a result of the breakdown of negotiations concerning the punishment of the criminals and indemnity payments of be made because of the Namamui incident in Bunkyu 2 (1862).

歴史散歩(18):西郷家の墓


この墓所は、西郷隆盛の祖先とその一族の墓地です。




江戸時代中期からの代々の墓や隆盛の両親の墓をはじめとして、23基の古い墓石が3列に並んでおり、大正11年8月、南林寺墓地(現在の松原町から南林寺一帯にかけてあった墓地)からこの地に改葬されました。

左は隆盛の弟吉二郎の墓です。吉二郎は明治元年新潟五十嵐戦争で負傷、戦死しています。
右は新しく建てられ、吉田茂が墓碑銘を書いた西郷家の墓です。

2013年4月28日日曜日

歴史散歩(17):小松帯刀屋敷跡


原良町に小松帯刀の屋敷跡があります。高い石垣で囲まれています。現在は私有地になっており立ち入りはできません。


小松帯刀は天保6年(1835)、喜入領主肝付家の3男として生まれ、20歳で小松家の養子となり、小松帯刀と改名しました。子供のころから学問や武芸に優れ、27歳で藩の家老になり西郷隆盛や大久保利通などの下級武士出身の若者を重要な役目につけました。



県文化センター前の小松帯刀の銅像です。

歴史散歩(16):肥薩線開通記念碑


明治42年(1909)に国鉄肥薩線開通を記念して鹿児島刑務所前の甲突川べりに495本の桜を植えた時に建てられた火です。


明治42年の開通時には門司から鹿児島までの鹿児島本線の一部であったが、昭和2年(1927)に八代から鹿児島の沿岸部を通る路線が開業すると、肥薩線と名前が代わりました。また、昭和7年(1932)に鹿児島~隼人間が日豊本線の一部となると、肥薩線は八代~隼人の間になりました。

2013年4月27日土曜日

歴史散歩(15):鹿児島刑務所跡


ヨーロッパの城を思わせる大きな石造りの門があります。ここに鹿児島刑務所がありました。
江戸時代には牢屋と呼ばれ、郡元の一之宮神社の近くにありましたが、西南戦争で焼かれてしましました。翌年、鹿児島駅近くに鹿児島監獄所が建てられました。しかし、市の中央にあるとういうことや建物が古くなったこともあり、明治34年(1901)から新しい刑務所の建設が始まり、7年後の1908年に完成しました。


石造りの刑務所としてはわが国で最も古く、尚古集成館や五大石橋とともに、鹿児島の貴重な石造建築物でした。鹿児島刑務所は、昭和60年に吉松町(現湧水市)に移転し、今は正門だけ残り、中世ヨーロッパの城門を思わせるゴシック建築独特の様式を偲ばせてくれます。

国の登録文化財に登録されました。

跡地は現在鹿児島アリーナになっています。

神社・仏閣(5):鹿児島神社


鹿児島神社は鹿児島一円の地主神と伝え、広くまた海の神様であるといわれています。
国史「日本三代実録」は清和天皇の貞観2年(平安時代)、朝廷がこの神社の神位をあげられた
ことを記しています。


御祭神は彦火火出見命、豊玉姫命、豊玉彦命および豊受大神を合祀しています。
鹿児島神社の別名を宇治瀬神社といい、土地では「宇治瀬様」を薩摩弁で「ウッテサァ」と呼んでいます。宇治瀬とは、鎮座の故地、錦江湾の神瀬の小島にかかる瀬のいと早く渦巻く様とも、また、甲突川の早瀬の逆巻く様ともいわれています。


境内には樹齢600年のクスノキがあります。幹回り7.5m、木の高さ24.5mです。
立派な大木でした。

2013年4月26日金曜日

川と橋(2):涙橋(新川)



新川に架かる涙橋です。

旧谷山街道と新川が交わるところに架かっています。
江戸時代、橋の先の処刑場に向かう罪人と家族がこの橋のたもとで最後の別れをしたことから、涙橋と呼ばれるようになったといわれています。



2013年4月23日火曜日

歴史散歩(14):伝・豊臣秀頼の墓


大阪城が落城したとき、豊臣秀頼は島津氏を頼って薩摩に落ち延びたといわれます。「秀頼の薩摩落ち」の伝説です。高さ3mのこの塔は、その秀頼の墓と伝えられていますが、下からは何も出なかったそうです。
初代谷山氏の供養塔という説もあります。


Grave of Toyotomi Hideyori

Legendary stories say that Toyotomi Hideyori found refuge here after the fall of Osaka Castle. The obelisk-like stone is said to be the grave of Hideyori.

川と橋(1):潮見橋(和田川・木之下川)




旧潮見橋は鹿児島市と揖宿方面とを結ぶ交通の要衝に位置しており、明治23年(1890)、3連アーチの石造橋として竣工しました。この橋は国道225号の開通まで、交通の大動脈の一翼を担うとともに、周囲の景観と調和した美しい姿が人々に親しまれてきました。


その後、和田川、木之下川流域の宅地化が進む中で、下流部の住宅密集地に対する大雨・台風時の親水被害に対処するために木之下川の川幅拡幅・河床掘り下げなどの改修事業がすすめられました。
旧潮見橋も架け替えが決まり平成18年に解体されました。



解体した石材は、旧潮見橋の歴史を後世に伝える記念碑や新しい橋の護床敷石として生まれ変わることになりました。

現在の潮見橋の50m上流に旧潮見橋を偲ぶ記念碑が建っています。

2013年4月22日月曜日

歴史散歩(13):浪之平刀匠遺蹟


薩摩の名刀といわれる波之平の初代刀工行安は、橋口正国といって大和(奈良)の国から薩摩に入り、永延年代(987~988)、この地にすみました。波之平地区は近くに谷山海岸の豊かな砂鉄、背後の山に木炭、そして焼き刃渡しの水もあり、刀剣づくりに適していました。行安は一条天皇の御剣を作ったことから、波平刀は「笹貫」として全国に名を知られるようになり、明治初期まで64代、900年も続きました。


波平の名は、正国が船で京に行く途中、嵐にあい、自分のつくった刀を海になげて神に誓ったところ、波が急に静かになったことから、波平と名をかえ、晩年に波平行安と変えました。

遺蹟のなかには湧水が溢れていました。当時、焼き刃渡しの水として利用されていたのでしょう。


その側には水神様が祀ってありました。

銅像(2):桑鶴市長の像


谷山市はかって鹿児島県中部に存在しました。1889年の町村制施行に伴い谷山村になり、1924年に町制施行し鹿児島郡谷山町となりました。1957年に谷山町が単独で市制施行し谷山市となりました。1967年鹿児島市と合併し消滅しています。

銅像は元谷山市役所(現鹿児島市谷山支所)の前に立っている初代谷山市長の桑鶴実氏です。


また、その隣には谷山市の市制施行の記念碑も立っています。

歴史散歩(12):地頭館跡



薩摩藩は鶴丸城のほかに113の外城をおき直轄地には地頭館(役所)を設けました。谷山では谷山小学校付近に地頭館がおかれ、ここが谷山地区の行政、軍事の中心となり、周囲に郷士が住みました。
明治4年(1871)、地頭館は第15郷校となり、明治9年に谷山小学校となりました。