涙橋血戦の碑です。
この碑は1877年(明治10年)の西南戦争の時、ここで官軍と戦い戦死した枕崎出身の西郷軍90名を供養するために建てられました。
右にある水神碑は、島津家第28代藩主斉彬が、郡奉行猿渡成右衛門に命じこの近くに造らせた池を祭ったもので、この水によって、今の南小学校付近34haが畑に変わりました。
左の柴立松の碑は、一之宮神社に伝わる話に因んだものです。天智天皇の皇后の大宮姫は、頴娃の豪族の娘で、奈良の都には住まず、頴娃に住んでいました。時たま鹿児島に出てくるとき、長崎山柴立(涙橋の近く)で腰をおろして休憩しました。地元の人はその石を「腰掛石」と呼んで大事にしたそうです。その石が大嵐で海に落ち、石のあったところに松の木が生えてきたので、人々はこれを「柴立松」と呼んで大切に育てたといいます。
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